
お寺を訪れた時、静かにたたずむ仏像の前に立つ。 その荘厳な姿に、多くの人々が手を合わせます。
では、そもそも仏像はなぜ作られたのでしょうか。 信仰のため、芸術品として、権力の象徴として。様々な理由が語られますが、もしその根源にある動機が、実は理由はたった一つで、すごく人間的なものだったとしたら。
この記事では、難解な仏教用語を一度わきに置き、その「たった一つの理由」を解き明かしていきます。
歴史的な事実と、私自身が奈良の地で仏像と向き合った”生きた体験”を交えながら、その核心に迫る内容です。
この記事を読み終えたなら、仏像を見る目ががらりと変わるかもしれません。
▼この記事でわかること
- 仏像が作られ始めた意外なきっかけ
- その根源にある「たった一つの人間的な理由」
- 歴史的な有名仏像に込められた具体的なエピソード
- 仏像鑑賞が何倍も深くなる新しい視点
目次
仏像が作られ始めた「きっかけ」とは?
ここでは、歴史の旅をするように、リラックスして読み進めてみてくださいね。
意外に思うかもしれませんが、最も初期の仏教には、仏像というものが存在しませんでした。
お釈迦様の姿を直接的に表現することは恐れ多いとされ、人々は菩提樹や足跡の石などをシンボルとして拝んでいたのです。
しかし、仏教がインドからアジア全域へ広まっていく過程で、大きな転機が訪れます。
より多くの人々に教えを伝えるため、また、目に見えない存在をより強く感じるため、人々は”目に見える形”を求め始めました。 こうして、仏像の歴史は幕を開けたのです。
たった一つの「人間的な理由」その正体
では、人々を仏像づくりへと駆り立てた、その根源的な動機とは何だったのでしょうか。
様々な側面がありますが、その中心を貫くたった一つの理由。 それは「救いを求める心」です。
病、死、争い、飢饉。 人の力ではどうすることもできない苦しみや不安に直面した時、人は目に見えない大いなる存在に助けを求めます。
その”祈り”や”願い”を託す対象として、仏像は作られ始めました。
仏像は、ただの石や木ではありません。それは、人々の切実な想いを受け止めるために生まれた、祈りの器なのです。
仏像はなぜ作られたのか。 その原点には、このようなすごく人間的な想いがありました。
歴史が証明する2つの具体例
この「救いを求める心」が仏像を生んだことは、日本の歴史を見ても明らかです。 特に有名な2つの例を紹介しましょう。
病気の皇后を救いたい ― 薬師寺建立の想い
今から1300年以上前の680年。 時の天武天皇は、最愛の皇后(後の持統天皇)が重い病に倒れたことに深く心を痛めました。
そこで天皇は、皇后の病気平癒を願い、薬師如来を本尊とするお寺の建立を誓います。 これが、世界遺産・薬師寺のはじまりです。
「どうか、愛する人の命を救ってください」 この切実な個人の祈りが、国宝の仏像を生み出すきっかけとなったのです。
国の危機を乗り越えたい ― 東大寺大仏建立の願い
奈良時代の8世紀。 聖武天皇の時代、日本は深刻な危機にありました。
相次ぐ大地震、干ばつ、そして天然痘の大流行。人口の3割近くが失われたとも言われる未曾有の国難です。
この状況を憂いた聖武天皇は、仏様の力で国を災いから守ろうと、巨大な盧舎那仏(るしゃなぶつ)、つまり奈良の大仏を造ることを決意しました。
「どうか、この国をお守りください」 個人の祈りを超えた、国全体の安寧を願う巨大な祈りが、あの東大寺の大仏を誕生させたのです。
【私の体験談】薬師寺で感じた、1300年前の祈りの形
私は時々、薬師寺を訪れます。
特に好きなのが、国宝の薬師三尊像が安置される金堂です。
中央に薬師如来、その両脇を日光菩薩と月光菩薩が固めるそのお姿は、完璧な調和と美しさに満ちています。
しかし、ただ美しいだけではありません。
お堂の静かな空気のなかで仏像とじっと向き合っていると、天武天皇が皇后の無事を祈った、あの1300年前の”想い”が伝わってくるような気がします。
すらりと立つ月光菩薩の、腰を少しひねった優美な姿。 その姿を見ていると、病床に伏す人を心配し、寄り添う人の優しい仕草と重なって見えてくるのです。
この仏像は、天皇の個人的な祈りから生まれました。しかし、今では病に苦しむ全ての人々のための祈りの対象となっています。 その事実に、私はいつも深く心を打たれるのです。
まとめ:仏像なぜ作られた?実は理由はたった一つ、すごく人間的でした
この記事のポイントを、最後にもう一度まとめます。
- 仏像が作られ始めたのは、目に見えない教えや祈りを”形”として感じるためでした。
- その根源にある動機は「救いを求める心」という、ただ一つの人間的な理由です。
- 薬師寺や東大寺の仏像は、病気の回復や国家の安寧といった、人々の切実な願いから生まれました。
仏像とは、ただそこにあるだけの石や木の塊ではありません。
一体一体に、それを創らせた人の想い、創った人の技術、そして、それに手を合わせた数えきれない人々の”願い”が、幾重にも重なって宿っています。
次に皆さんがお寺を訪れる際は、ぜひその仏像が「誰かの切実な願いの結晶」であることに、少しだけ思いを馳せてみてください。
きっと、その眼差しや佇まいが、これまでとはまったく違う、温かいものに見えてくるはずです。